所謂五丁街

吉原の起原については芳町のところど述べた通り、元和三年今の日本橋区葭町附近葭蘆の茂つた荒蕪地を伐開き、遊女町を設けて吉原と呼んだのが濫觴で、次に明和三年六月現在の地に移転を命ぜられて「新吉原」となつたものであるが、同年正月所謂「明暦の大火」に一同焼出されてたばかりで、移転建築も捗々しく進行しがたい事情にあつた所から、家作普請の間は替地の近辺今戸村山谷・鳥越に於て借地して商売すること勝手たるべき旨を公許された為、いづれも附近の百姓家などを借入れて仮営業をはじめた。 往時吉原へゆくを山谷通ひと称し、猪牙船を山谷船など呼んだのはこゝから起つた語ださうである。

所謂五丁街といふは江戸町一、二丁目、京町一、二丁目、及び角町の五箇町を指せるもので、これは元吉原時代からの遺唱であるが、その名称の起因について「吉原大全」や「花街漫録」等の書に説くところに依れば、

揚屋町は元吉原時代各地に錯居してゐた揚屋を一所に集めたところで、古い絵図を見ても此一割は揚屋ばかりである。

大門から真直ぐ突当りの水道尻に至る中央大通が所謂『柳さくらの伸之町』。 これは新吉原になつてできたもので、両側は軒並引手茶屋ばかり、よく芝居の舞台に取入れられてある華やかな場面であるが、今日は御覧の通り中央には桜ならぬ電柱ばかりが立並び、安普請の引手茶屋の間には自動車屋などが割込んで、彌が上にも美観を損ねてゐる。

大門入口の所を「肴市場」、仲之町と角町及び揚屋町との十字路を「待合の辻」、角町の南方を「羅生門河岸」京町二丁目の北側を「七軒」又は「三日月長屋」、その他九軒、十二軒、六軒或ひは横町等々いろヽと俗称もあるが、一般嫖客には左まで必要もなからうし、書物などでおぼえて通がられては吉原が泣くであらう。