浅草区

柳橋

位置は両国橋の西詰。市街電車は早稲田—錦糸堀線又は新宿—緑町線の「両国」停留場下車、或は本石町—雷門線の「浅草橋」で降りても、近きは二町遠きも四五町を出でぬ距離である。

「柳橋」とは神田川の落口に架した橋の名で、その橋を中に挟んで北は下平右衛門・新片町、南は元柳町の両岸に跨がつて居るところから、橋の名がやがて花街の名となったのである。 新橋が維新以後の新らしい花街であるのに対して、柳橋は徳川中期から引つゞく古い花街であり而も倶に橋の名から超り、「新柳二橋」と併び称せられて大東京を代表する二大花街であるところ、対照の妙を極めて居ると云はねばならぬ。

橋の袂に一木の柳があって、緑のいろ濃く枝を茂らせ、風になびく、紅燈の影は淡く神田川の水に砕ける、その間を花のごとく着飾った美しいものが往き交ふ、柳暗花明の文字をそのまゝに艶めいた姿が柳橋の生命であった。 その柳は震災の際に焼失し、橋も新らしくコンクリートに架替られて、此あたりの風致は少からず減殺されたとはいふものゝ、両国橋の中ほどに立って眺めわたす大川の西岸の、上は代地河岸から下は浜町河岸にならぶ紅の燈、かげを水に映してきらめく夜景のうつくしさは、ちよっと他に類のないものだ。 何と云っても東京五十四花街のうち、いかにも色里らしく艶めかしい趣きを見せて居るのは此の花街である。

神田川を境に、北岸は浅草区で南は日本橋区、一つの花街で両区に跨がってゐる態もおもしろい。 が、芸妓屋を始め主なる料亭、待合等殆んど北岸に集中し、南岸の方は僅かに其の分れがあるにすぎない、北岸は即ち下平右衛門町、往古「鳥越の里」と称せられた地の一部で、俗に代地河岸と呼ばれ、延いて柳橋の別称を「浅草代地」ともいふ。

浅草

吉原

浅草公園から北へ四五丁、浅草区の最北端に位して西南は千束町二三町目、北は下谷龍泉寺町に堺し、東は五十間町をへだてゝ所謂「日本堤」に対せるー割である。 市街電車は南千住線の「山谷町」下車、西へ約四丁で大門に達するが、三ノ輪線の「千束町」或ひは「龍泉寺町」等に下車してもよい。

省線(山手線)は鶯谷駅もつとも近い、円タクは市内どこからでも一円でよい。

本称「新吉原」略して「仲」。 「北廓」は即ちその別称であつて、清元の「北州」は吉原の景物を唄つた名曲であることは今更贅説するまでもあるまい。 その「北州」に、

日本づゝみを土手馬の、千里も一里かよひ来る……。

霞の衣えもん坂、衣紋つくらふ初買の、袂ゆたかに大門の、花の江戸町京町や……。

と唄はれた「日本堤」「衣紋坂」、その日本堤から衣紋坂をおりて大門の見返り柳までの「五十間道」などの名のみはなつかしく遺つて居るが、山谷堀から二挺立の駕籠で土手八丁を、次から次へと一列に飛んでゆく提灯の光り、衣紋坂を悠々緩歩してゆく編笠の武家衆すがた、さては見てくれがしの丹前姿を自慢の伊達衆が花の江戸町ゆかりの京町を、額に扇かざしつゝぶらりくと格子先きをたどると云つたやうな雅びた光景は、すでに六七十年前の夢と化し去り、五十間の両側は一列にバーやおでん屋となつて昔の編笠茶屋などはもはや影も形も認められない—と乙に悲歌慷慨するさへ実はくすぐつたい気のする時代だ。 昭和の代になつて、徒らに旧幕時代の古い情調をなつかしんだ所でどうなる。 円タクを飛ばせてゆく時代には矢張時代相応の情調を味ふより外に致し方がないではないか。 さう観念して了へば流石に、吉原は吉原だけの特殊のカラアもあり、まだ面白味もある花街なのである。