島原遊廓の歴史

序だからざつと書かう。 こゝは元朱雀野の一部で上古鴻臚館の在つたところ、後ち歓喜寿院といふ寺の境地となり、今でも西口の畠の中に字「堂の口」と呼ばれる処が残つてゐる。 京都の遊廓は応永の頃(足利義満時代)九条に設けられたのが濫觴で、「九条の里」と称して居つたが、応仁の戦後二条万里小路に移し、ついで地皇居に近いといふので復た新町西洞院の間六条の北に移したが、寛永十七年都市の発展につれて遂に現今の地に移され、廓内を六区に別ちて「西新屋敷傾城町」と称してゐた。 それを島原と呼ぶやうになつたのは、当時恰かも肥前島原に天草の乱があつて天下騷然たり、此の遊廓移転問題についても非難が多く、京洛の物情騷然たるものがあつたので、戯れに「島原」と異名したのが、ついに本称となつてしまつたのである。

嘉永四年に大火があつて、僅かに揚屋町を残して全廓殆んど烏有に帰してしまつた。 それで一時祇園新地内へ移して仮営業を許可した。 その頃から祇園が盛んになって、島原は衰へて来たのである。 それは移住した者が淋しい島原へ還ることを嫌って、半分も帰っては来なかったからである。