そぐはぬ気分

森閑として御堂のやうな大広間、黒光りのする金屏風にゆらぐ白蝋の火影は頗る古典的で祇園や先斗町の明るい電燈の下で飲むのとは、又おのづから変つた気分があるけれども、その情調なるものがどうもピタリと私達の胸には来ない。 さうした情調に浸つて見たいといふ心持は充分持つてゐても、我々の心は最早さうした空気とは融合しない迄に離れてしまつてゐるのか?。 その点もあらうが、しかし主因は、寧ろ其のクラシカルな気分の核心であるべき花魁そのものが、現代式な安女郎であるが為ではなからうか。 曰く、『チョンチョン格子が河岸店にでも居るやうな越後者の在郷者に、どんな金絲銀絲の裲襠を着せて坐らしたつて、引立たないばかりか、却て厭な気持にならしめる。 それに女の心持が極度に卑しく、初会の客に無理に祝儀を強請つたりするのは、同じ京都の遊廓でも、祇園あたりの太夫にはないことだ」と。 古野、大橋、揚巻、夕霧なんどいふ昔の名妓が地下で聞いたら涙をこぼすであらう。 —などゝ月並を言ふ訳ではないが、又客が客なる今時に、太夫にばかり諸芸作法を心得た美人を求めても無理であらう。 要するに島原の古典的な気分も容物だけのことと知るべきである。 翌朝、お座敷拝見といふやつを誰れでもやる。 案内の小婢が先に立つて、網代の間から始めて翠簾の間、扇の間、草花の間、馬の間、孔雀の間、八景の間、梅の間、青貝の間、檜垣の間、緞子の間等々。 いづれも襖、障子、額、軸物、天井、地袋に至るまですぐれた書晝を貼つたり懸けたりした室々を、明いてる処を見て廻るのだが、蕪村の「夕立山水」、「応挙の「少年行」などを筆頭として岸駒、雲谷、洪園、常信、大雅堂等の大家がズラリとならんでる処は、さすがに元禄時代の豪奢な遊蕩の面形が偲ばれぬでもない。 就中青貝の間といふのが一番立派で、四周悉く螺鈿を篏してあつた。 庭前にある「臥龍の松」も有名なもので、此の家の長松楼といふ屋号はこの松から来てゐるといふ。

名物「太夫道中」花も漸やく盛りをすぎた四月二十一日に毎年行はれる。 此日は午前中に大門が閉るから、見物人は朝早くから弁当持参の一日がゝりで出かける。 両側の家の階上階下は勿論、中央に太夫の通る道幅だけを明けて、路上に蓆や茣座を敷いて坐りこんでるところはまるで御大典拝観の騷ぎそつくりである。 それで道中の始やるのは欠仲も品切れになつた午後の三時過ぎ。 先づ八名の芸妓に依つて曳かるゝ花車がやつて来て、次で禿二人を露払ひとして太夫は右手に裾を持ち、左り手は斯う懐中に入れて、例の三枚歯黒塗の高下駄を素足に穿いて、カラン、コロン、外八文字を踏んでやつてくる。

髪は立兵庫もあり、横兵庫もあり、勝山もあり、いろいろである。 「曳舟」と名付づくる介添が付添つてゐて始終着付などを直してゐる、後ろからさし傘を持つた男がつゞく、道中は二丁足らず、出場の太夫は年々の編成の都合にもよるが大抵十五六名から十七八名である。 最後に善美を盡した真打の太夫が八人の禿を連れて、数万の瞳をながし目に、○々娜々として練つてゆく。 これを「傘止」と云ひ、傘止めに出れば爾後間もなく、屹度落籍されるといふ伝説が、昔から此の里には信ぜられてゐる。