島原気分

私の行つたのは角屋であつたが、太い格子づくりの間口の広い—長屋門のやうな古風な二層楼で、ずつと昔吉原の大文字楼へ行つたとき、当時の農商務省に彷彿たる西洋建築にをどかされた私は、こゝでは武家屋敷の玄関然たる式台にちよつと荒膳をひしがれた。 内玄関には赤の漆で太夫の名を記した黒漆の長持が幾つか並べてあつた、それは太夫が揚屋入りをするとき、夜の物から枕箱、煙草盆に至るまで、一切の調度を入れて、男衆にかつがせて、(二人、さし棒)くるものださうで、今日も矢張り昔通り行はれてゐるのだ相である。 尤、こゝらが鳥原の生命であらう。

玄関から座敷へ案内される時の心持は、まさに寺の御堂を通つて位牌所へゆくといふ感じであつたが、若い仲居が歯を黒く染め、青く眉毛を剃落として、赤前垂れをして居るのは、艶にうつくしく感ぜられた。

大きな二台の燭台に白蝋の灯をともして、座敷の中央に置いた。

それで漸といくらか座敷が明るくなつたが、三十畳も敷けやうといふ大広間の隅まではとても光りが届かない。 金地や銀地に描いた襖や袋戸棚の古い極彩色の絵が半ば剥落して、さながら昔元禄時代の全盛の名残りを偲ばせる美くしい残骸の如く、薄暗い紙燭の火彫の彼方から此方を窺つてゐるかのやうにおもはれる。

そこへ小さな婢衆が入り替り立替り、煙草盆や茶器、酒宴の道具を運んでくる。 やがて型の通りに年増の芸妓に若い妓、それから舞妓がくる。 一巡盃がまはつてゐる頃、廊下の方から人の来る衣ずれの音がして、向ふの薄ぐらい入口に立てた大きな衝立の脇から、花櫛や笄を一ぱいに飾つた京風の立兵庫に、金絲銀絲で剌繍つた大裲襠の裾を擦りながら、華美な大模様を染出した前帯を高く胸のあたりにつき出すやうに見せて、静々と座敷の中に進んで来た。

本当ならそこで太夫のおかしの式といふのがあるのだが、それは省いて一通り簡単な酒盃の交換があつて、やがて太夫は下つてゆく。 このおかしの式といふのは詰り引付のことであるが太夫を揚屋に貸すといふことから起つたのだといふ。

太夫が薄暗い座敷の中から向うの衝立のかげに姿を消してしまふと、座持の老妓は膝の脇に置いた三味線をまた取上げて、『さあ、何かひとつ聞かしてとくれやす』。