今日の島原

電車を降りてまつすぐに西へ約三町、場末めいた町を歩いてゆくと、普通の町家の間に交つて小料理屋や仕出し屋、すし屋、うどん屋などが漸やく多くなつてくるのは矢張り場処柄である。 突当りに寺の山門のやうな大門があつて、傍らにお約束の柳の古木が一株、房々と緑の枝を垂れてゐる。 但し見返り柳とは呼ばず「出口の柳」である。 廓内は中之町、上之町、中堂前町、太夫町、下之町、揚屋町と六箇町に分れてゐるが、これが島原かと怪しまれるほどの寂しさ、素見客の出さかる時刻にも人の往き来は稀れで、中央の柳と桜の並木に沿ふてゆくと、ところぐにある薄暗い行燈の蔭から、ちょいとちょいと婢が客を手招きするなど、曾ては夜々の蘭燈に不夜城をあらはし、才情双絶の名妓雲のごとく群集せる島原の格式も絲瓜もあつたものではない。

で、今日では只通人てふ種類に属する一部の人々が、丁度盆栽や骨董品を愛するのと同一の趣味から、古色蒼然たる島原情調を説くの外は、たゞ博物館に陳列し得ぬ記念品として見物がてらゆくのが主で、客は大抵東京或ひは阪神地方からの旅客である。 従つて多くは有名な家をのみ志す。 此の遊廓草創以来二百七十年間連綿としてつゞいて居る旧家「角屋」の如きは、霜枯れと称する二八の月でも、客は殆んど満員で、忙しい月には両三日前がら申込んで置かなければ座敷がないといふことだが、末輩の揚屋に至つては前格子に蜘蜘の巣を張つてゐる有様。

以上が即ち「今日の島原」である。

花魁に三種あり、即ち「太夫」「伯人」「娼妓」で、次に芸妓。 島原ではかうした席順になつてゐる。