宮川町の沿革

に曰く『往時、内親王又は女王を斎宮に立て大廟を奉仕せられし時代、加茂川四条のあたりに堰を作りて水を引き、清き細流を湛へて斎場とし、定例の禊を行はせ給ひき。 宮川の称これより始まる。 堰の名は現に町名に存し此附近を井手の町と呼び、その東溝は宮川の遣流なりと言伝ふ。 —宮川筋は元と加茂川の磧なりき。 宮川町一丁目は寛文六年開地し、二丁目より五丁目までは寛延三年に開け、六丁目七丁目は元禄十二年拓かる。 又西御門町は正徳二年にひらけ、旧時此処に十禅師社ありしを以て町名とし、開拓当時には「建仁寺新地」の称ありき、これ建仁寺の領地なりしが故なり。 —宮川町遊廓は今を距ること百七十余年前、寛延四年二月所司代松平豊後守資訓、町奉行稲垣能登守正武の時、はじめて茶屋渡世を許される、宮川筋一丁目より六丁目迄、茶屋渡世十ヶ年を制限とす、期満つるに及び継続を請願し、明和七年祇園町と共に茶屋株を允許せらる』と。 蓋し京都では最も古い歴史を有する遊廓の一つで男娼流行の時代にはカゲマ茶屋があつて有名だつたことも世人の知るところであらう。