先斗町の特色

京のあそびは祇園に止めを剌すことは言ふ迄もなく、先斗町では決して本当の京の花街情訓は味へるものでない、が、是れは誰でもいふ所だが祇園の芸妓は取付きがわるい、馴染の妓でもあるか、行つけの友達と一緒にでも行けば面白いけれど、旅の客なぞがたとへ一流の旅館から紹介させて行つて、一流の茶屋で、一流の美人を招んで遊んで見たところで、一向何の変哲もない。 きちんとお手々を膝に置いて、人形然と座つて居るばかりである。 老妓となれば流石にさうでもないが、そして近来大分此の妓風は脱けて来てはゐるが……。 その点にゆくと先斗町は初会から親しみ易く、気分が何程か東京風を帯びてゐる。 芸妓ばかりでなく仲居も、女将も、花街全体がさうしたカラアの処である。 それは全たく、川一筋でかうも気分が異るかと不思議に感ぜられる位だ。 少し浮ツ調子で安直な代り、それだけ現代的といふか、兎に角東京者には最初はこゝが遊びいゝ。

こゝには娼妓は居ない、純然たる町芸妓風で、踊りも祇園とはちがつて此処は若柳である。 それに又花街そのものが小さく、小ぢんまりとして居ることなども、遊びよい一つの原因ではないかと考へる。

現在芸妓 約二五〇名(内舞妓約二十名、義太夫二十名)。

貸座敷 百六十三軒

先斗町の起原は祇園に較べると余程新らしい、寛文十年(約二百七十年前)加茂川に沿ふて石垣の普請が行はれた。 その時それを当込んで此あたりに岡場所ができたらしく、次で延宝二年の二月橋下町、若松町、梅ノ木町、松本町に初めて五軒の揚屋茶屋が許可された。 正徳二年、橋下町から西石垣斉藤町の間に生洲株なるものを差許されて、三条から四条に亙る現在の地に茶屋旅籠屋ができ、「茶立女」といふ名義で一種の遊女を置いた。 これが先斗町の・起原で、「芸者」といふ名目を公許されたのはそれからずつと後の文化十年からであつた。 即ち今から百十余年前である。 と云ふと八釜敷も聞えるが、京都の表玄関口たる三条の橋の袂に、色街の出現発達は当然な勢ひだつたのである。