祇園新地の沿革

に就て京都名勝誌に曰ふ。

—現今の祇園町両側などは、祇園神社鎮座のむかしより家屋接続の地なりしも、中古兵乱の為め次第に荒廃して一寒村となり、僅かに農家の散点するのみなりしが、元和・寛文より正徳に至りて漸次に田圃を開拓して市街となし、祇園・清水等参詣人のために茶店など出来たりしが、いつしか美女を抱え、酒肴を供し、後には青楼・酒館軒をならべ燈を連ね絃歌の声は昼夜湧くが如く、遂に京都第一の遊廓となりぬ。 (京都市役所編纂)。

と、即ち祇園清水の門前町として発達した花街で、今すこし註釈を加へるならば、此地に祇園感神院の勧請されたのは貞観十一年(一千六十年前)可なり古いことで、当時の腰掛茶屋こそ今日の貨席の濫觴であり、茶汲女は即ち芸妓の元祖である。 茶屋といふ名義を公許されたのは徳川時代の享保十七年、僅か二百年ほど以前からのことで、詣道両側には追々多数の茶屋が軒を接するやうになり、寛政二年(百三十八年前)始めて遊女町の許可を得て遊廓となったのであるが、享保時代の「茶屋」なるものがすでに茶菓のみ供する休茶屋の類でなかつたであらうとは、蓋し誰しも想像に難くない所で、事実は立派な娼楼であったのである。 それは大石内蔵助が揚屋通ひの文句に、『祇園島原撞木町』とあるのでも明らかであるが、蘭人ケムフエルの紀行などを見ると一層その事実が明瞭にわかる。

寛政二年遊女町を許可されたといふのは、たゞすでに実体の在つた所へ之に副ふ名称を附したといふにすぎない。 天保十四年に洛中洛外一般に遊女町を禁じて、一時悉く島原へ集中されたが、嘉永四年島原の大火後復帰して内町六ヶ所(富永、末吉、元吉、清元、林下、橋本)を限界として許可し、その後急激な発展につれて安政六年外六ケ町(弁財天町、中ノ町、廿一軒町、川端町、常磐町、宮川町筋一丁目)を編入して祇園遊廓の一廓を成し、更に別れて今日は甲部・乙部となつてるといふ訳である。