住吉

浪花区難波駅から南海鉄道本線に依つて「住吉公園」下車、西南へ約四丁。 或は西成区恵比須町から阪堺電車にて住吉公園「鳥居前」停留場下車、西南へ五六丁。 堺市方面からは同線の「細井川」停留場に下車するが便利で、西方三四丁で達する。

住吉は今大阪の市内であるが、昔から郊外の歓楽郷として聞えた地で住吉の名所・名物をよみ込んだ「伊予節」の唄に、

堺すみよし反橋わたる、奥の天人五大力、明神、縣、大神宮さんをふし拝み、誕生石には石を積む、赤前垂が出てまねく、ゴロゴロ煎餅、竹馬や、麦わら細工やつなぎ貝、買はしやんせ。

と。 赤前垂で客を呼んだといふ三文字・伊丹屋は無くなつても、長柄の杓で茶を汲んで出した小町茶屋は無くなつても、社前から海浜一帯にかけての松ばやし、松はいづれも雅致に富んで、その間に腰掛茶屋や料理屋などがある、いづれも瀟洒な構えで、俗なところもあるが、感じはわるくない。 全体が公園になつてゐてその西の端に有名な高燈籠があるが、今は海面から三十町もかけ難れてしまつてゐる。

以前は此の公園内に夥しい料理茶屋があつて芸妓が出入したが、今は入れなくなつた。 松林の間を南へ抜けて、細井川の江川橋を渡つたところが指定地である「住吉花街」で、広さは約一万坪もあらう。 そこに、

芸妓置屋 十五軒。 芸妓 約四百名。 料理茶屋 約二百軒。

これが此の花街の構成要素である。 公園への出入を禁ぜられたのは確かに一大打撃であつたが、十三間川の向ふ岸の菖蒲園に「新明月」その他、大きな料亭ができてから、大いに景気づいて来た。

主なるお茶屋

新明月、広田屋、小山楼、岸の館、菊水、さかえ、千代家。

新明月から岸の館までは自宅で料理をする。 就中新明月の如きは敷地二千六百坪、大宴会用の大広間もあつて、大大阪市随一の大料亭である。

住吉情調

なるものを説くほど此の花街に深い馴染みを有つて居らぬが、市制の区域内とはいふものゝ四方は田舎で、ちよいと出れば畑に田圃だ、いかにも郊外らしい静かさと落着に富んでゐる。 どこか伸びりした気分がある。 それで大阪の紳士紳商連の中にも、顔がさゝぬでよいと云つてわざくこゝ迄遊びに来る者が多く、従つて芸妓や茶屋にもさうした人達の贔屓で繁昌して居るのが少くない。 芸妓にも旧市街の花街で相当名を売つたもので、こゝヘ流れて来て居るのもあつて、芸のあるのは芸で売つてゐるが、芸のないのと来たら、所謂大阪言葉で、『テンとお話にならへん』のがあるのは土地柄已むを得ない。 とは言へ近来は、兎に角大分向上はして来てゐる。

遊興制度

こゝは『茶屋』(所謂貸席、料理は附近の仕出し屋から取る)からでも、料理屋からでも自由に芸妓が招べる、此点が少しく旧市内の花街とは異つてゐる。 芸妓の花代は一本十五銭、最初の一時間は七本、その後は一時間六本で計算する。 三味線のひけるのは夜十二時迄だが、引揚は午前二時となつてるから、それ迄は腰を落つけて遊ぶことができる。

名物「住吉踊」

当花街専属の師匠に若柳吉太郎、春日宗三郎があり、又専属ではないが右の外清元吉彌を始め常磐津、義太夫、舞踊の師範が数人あつてそれぞれ指導に努めて居るが、去る大正十五年江上修治郎作歌、今藤長三郎の作曲で「吉師部踊」なるものを作つて菖蒲園で演じたとき、その中に土地の名物「住吉踊」の唄を挿入した。 その歌詞は、

『住吉の、四社の御前の神かぐら

いつも変らぬ鈴の昔

ヤレ、吉さまの峯のひめ松、めでたさよ。

といふのであつて、黒の衣裳を裾高に着なして緋ぢりめんの裾を見せ、渋うちわを持つて、踊子は四人それが「心」といふ字の形を描いて踊るもので、中の一人が風流傘をさして其の柄を打ちつゝ拍子を取る。 振付は若柳吉太郎で住吉神社の住吉踊から取つたものださうである。