松島と飛田

「松島」と「飛田」は大阪市に於ける娼妓地帯、—南地、新町、堀江等の花街が芸妓を主とじ娼妓を従として居るに反し、此の二廓は娼妓を主とし芸妓を従とする所謂「遊廓」で、飛田は天王寺区に属し松島は西区の内に在る、名こそ西区だが松島遊廓は発展したる大大阪市の中心地に位するところから、いつも移転が問題となり、かつては政界の宿老箕浦翁にまで御苦労を相かけるに至つた市政上の癌である。 とは言へ、花街めぐりの著者が、何もそんな点まで心配してやる必要はあるまい。

松島遊廓

堂島川と土佐堀川が合流して再び木津川と安治川とに分岐して西に流れる、その木津川の大渉橋下の三角洲が即ち松島で、遊廓は松島て二丁目、仲の町で二丁目及び花園町に跨がり、東は松島橋、伯楽橋、千代崎橋より入るべく、西は梅本橋、常磐橋、花園橋、花売橋を渡って廓内に入る。

意気な三尺、尻垂れ結び、鼻唄ブイブイ九條行き、

と、以て朧ろ気ながら此の廓のカラアを窺ふことができるであらう。 欧洲戦前後から此の方面の急激な発展ぶりは素破らしいもので、松島から西へ九條通りにかけた一帯の地は、第二の千日前と云はれる程の賑ひであるが、明治元年十二月松ヶ鼻の新開地(木津川の三角洲)を松島町と改称して、市内の所々に散在せる小遊廓を取払って此に移したのが始めで、東京の吉原に模して廓の中央に桜の樹を植付けた。 夜ざくらで賑はふ廓は大阪では此ばかりだ、が、家並は大小さまぐ新旧またとりどり、その間には小料理屋、飲食店、八百屋まで介在してるといふ具合で、混然又雑然、甚だしく花街としての美観を欠いてゐる。 然し、昭和二年十二月末現在の統計に依れば、大阪府下の娼妓総数八千百五十五人中その約四割を此の一廓で占めてゐるといふ、府下随一は勿論おそらく日本第一の大遊廓である。

貸座敷 二百五十軒。  娼妓 三五〇〇名

芸妓置屋 八軒。  芸妓 一〇〇名

妓楼では「第三円楼」といふのが、規模も大きく、格式も高く、それに美人が多いといふ評 判で、先づ廓内一の妓楼と云はれてゐる。 料理店としては明治初年の頃大阪の名物と云はれた「現長」といふ鶏屋がある、鶏肉がいゝといふ訳でなく、便所の天井が硝子張りになつてゐて金魚や緋鯉が泳いで居るのが珍らしかつたのであるが、今は其の便所は無くなつて唯の現長になつてしまつた。

飛田遊廓

旧大阪の南端、西は西成区、北東は天王寺区、南は住吉区に接した一廓で、交通は南海電鉄阪堺線と同田辺線との交叉点「今池駅」に下車すれば、その駅下が即ち飛田遊廓である。

大正五年末に突如として指定された遊廓地で、当時大分問題となつたものであるが、当局の説明に依れば南北の両遊廓の火災で取払はれた権利者と、新町の電車通りに面した貸座敷を移転させる為に、所謂「遊廓整理案」に拠るものだといふ。

貸座敷約百八十軒。 娼妓二千三百人。 芸妓置屋一軒。 芸妓十五人。

大門を入つた中央大通りを中心に、街路碁盤の目のごとく縦横に通じ、家に多少の大小はあるが、いづれも同じやうな和洋折衷風の二階造りで、入口は両開きのドアになつてゐて、それを押してはいると写真がズラリと並んでゐる。 さすがに新設の遊廓だけあって、一望整然として心持がよい。

大通の突当りの左手に「長谷川」右手に「御園楼」といふ家がある、これが当廓の双壁らしい。

遊興制度

松島、飛田共に同一で、揚屋・引手茶屋の類はなく直接貸座敷へ登楼し、芸妓もそこに招んで遊ぶのである。 妓夫は凡て年増の女が勤めてゐる。

△娼妓 花代一本十五銭、一時間十本の勘定で『仕切』は午後六時より同十二時迄三十五本午前零時より同六時迄三十三本、午前六時より正午迄十八本、正午より午後六時迄三十本。 遊興税は花代一円に対して三銭。

△芸妓 花代一本十銭、一時間八本の勘定で、「仕切」は午後六時より同十二時迄三十四本、夜十二時より朝六時迄二十五本、朝六時より正午まで十六本、正午より夕六時迄二十七本。 遊興税は花代一円に対して七銭。