新町

西区の中央で同時に大阪市にも中央部、省線湊町駅から北へ約十丁。 電車は四ツ橋新町、新町四丁目、或ひは宇和島橋、向屋橋などに降りるがよい。

涼しさに四ツ橋を四つ渡りけり来山

その大阪名所の一つである「四ツ橋」といふは、市街の中央、長堀川と横堀川との交叉点に橋を四つ架けて河岸の通路を連絡させたところで、吉野屋橋、炭屋橋、上繋橋、下繋橋とそれぐ固有名称を有し、四ツ橋はその総称である。 今日は更に電車橋を架増して五ツ橋となつてゐるがどうして涼しいどころの騒ぎか、空には電車の架空線を蜘蛛手に引廻して、地には電車・自動車の往来引きも切らず、「新親不知子不知」と云はれる。 乗換場中での最難所である。 共処から西長堀川に沿ふて西し、北町一二丁目の間を北へ入るか或ひは横堀川に沿ふて北へ行くこと二丁、新町南通りを西へ曲るかすれば、即ち新町の廓である。 元は新町の表通りを挟んで南北に亙つてゐたが、今日では北は所謂「九軒」の一画だけとなり、南の越後町を中心として東西に伸び、南北は三筋の一廓である。

こゝは本廓であつたから、東と西の区別が截然として立ち、東は娼妓地帯で西が芸妓地帯、東の娼妓にも二種あつて、大茶屋小茶屋の招聘に応じて出張に及ぶ娼妓を「マンタ」と呼ぶ。 今一種は新町南通りの一方に巣くふ娼妓で、是は写真店の居付の女郎である、さる一廓を俗に「吉原」と呼んでゐる、但し写真店だから東京の吉原に擬してかく呼ぶものと早合点してはいけない。 新町は大阪の各所に分散してゐた傾城町を、新地に集合移転せしめて出来た最初の本廓で、頃は元和・寛永年間である、即ち伏見の傾城町が瓢箪町に移転し、こゝを「新町通筋」と言つて居たのが終に全廓の通称となつたもので、上博労町から「佐渡島町」へ、阿波座より「四郎兵衛町」「金右衛門町」へ、天満吉原から「吉原町」へ、以上五曲輪を新町と呼び、又瓢箪町とも異名して居つた。 吉原町はその遺称である。

江戸の吉原、京の島原、大津の柴屋町にこゝを加へて日本四曲輪と称したとも云ひ、吉原・新町に長崎の丸山を配して三大廓と称したと云ひ、兎に角徳川時代には代表的な遊廓であつたらしく、新町廓の名は戯曲の上にもなつかしき懐ひ出を有つて、多くの人に記憶されてゐる。

新町の妓風・情調

何となく古風な花柳の情調は、大阪でも最も古いこの新町に今でもたゞよふてゐる、「冥途の飛脚」の梅川が足を洗ふたとおもはれる西口の井戸はないが、こゝらあたり、東口を出て新町橋の袂など、まだ夏の宵のどこかに廓らしい情趣のないこともない。 古風なもつそりとした所に新町情調があり、当世風ならぬところに此シマの生命がどこか糸のやうにあとを引いて居るのである。 万事が手重で、廓の作法流儀が尚ばれ、むかしの習慣が重んぜられるところに、この廓の面目がある。 夕霧以来の吉田屋が営業をつづけてゐるなども、そのひとつと見る事ができる。

従って芸妓にも、伝統的に本廓の妓風が今もつて残つてゐる。 殊におもしろいのは、北陽の芸妓には特等と三等級しかないのに反して、このシマの芸妓には図抜けた特等のない代り、四流五流などといふひどいのがない、百点を満点とすれば先づ六七十点級、等級のひらきがすくない。 容色にしろ、妓品にしろ、さうした趣きが目立つで認められる。

代表的貸席

夕霧伊左衛門以来の吉田屋、幸斎の後を曳く茨木屋を両大関として、新進のいいお茶屋といへば先づ越後町の潮見亭であらう。 こゝの女将は大の芸好きで常盤津の松尾太夫でも清元の延寿太夫でも、皆こゝで草鞋をぬいだといふ有様、家の格といひ客すぢといひ将た扱ひぶりと云ひ、潮見亭を以て一等とし二等と云つてつゞく家がない位のものである。

遊興制度

芸妓の花代は一本十五銭、その他遊興税・席料等に至る迄他のシマと異る所はない。 但し線香の立て方は左の通りである。

二時間以内は一時間に付十一本、其以上は一時間毎に十本。 昼花(午前六時より午後六時まで)四十六本、夜花(午後六時より午後一時まで)七十本。 前花附預り十九本—前花附といふは宵の花が附いてあつて、引続き明し線香のつく事をいふので、預かりは芸妓を一夜預かるといふ意から来た語であらう、午前零時半以後からの預りは二十二本である。 通し花は八十七本。 宴会約束は四時間半を一座敷として四十五本。 此の外紋日、大紋日は増し花の附く事亦他廓と同じ。 こゝの大紋日は正月三日間、紋日は一月四日から十日迄、天長節及び住吉神社の御田祭り当日である。

即ち此の廓の花の立て方は、二三時間といふ短かい時間の遊びに比較的便利にできてゐる。 娼妓の花代は一本十六銭で一時間七本、昼花三十二本、夜花三十八本、夜十二時泊り二十六本、前夜よりの続き花正午迄十六本、昼夜通し花六十本といふのが概要で、席料は一人七十銭の定である。

新町花街名物

第一に「玉水」の鯨料理をあげる。 こればかりは他国には無い珍味且つ美味、玉水の主人は幾年をかけて、鯨の肉のいゝのを求むるに憂き身をやつしてゐる。 鯨は白長須といふ種類に限るのださうで、松尾太夫のごとき此の鯨党の旗がしら、無条件で大阪第一のうまい名物であることを保証すると云つてるとやら。

第二は六月十四日住吉神杜の御田祭りで、此廓の芸妓が田植女となつて神事に参加する。 昔からの古い行事である。 その他外の廓とおなじく行ふ春の踊を「浪花踊」と称し、南地・北陽の各長所を取って折衷したやうな方針でやつてるらしいが、先年試みた「鏡の踊」の如きは一寸面白い思ひ付だつた、それは鏡の両方で異つた踊子が同じ踊りを、恰かも鏡に映じた如くに踊るといふ趣向で、大分大衆に受けた。 然し何れかといへば古風な花街だけに北陽に近く、時に行はれる大阪舞・大阪唄のみの温習会のごときは、大阪ひろしと雖も此の廓を除いては無い。