曽根崎新地

大阪駅から南へ四五町。 電車は桜橋、船大工町、或は曽根崎上四丁目等に下車するのが便利である。

略して「北の新地」「北」或ひは「北陽」などいふ。 町名からいへば曽根崎新地一丁目、二丁目、三丁目に亙り、その表通りと裏通りに跨がつてゐる。 詰り東西に長ぐ伸びた花街で、むかしは今の堂島にあつたのだが蜆川を渡つて曽根崎新地へ北遷したのである。 その蜆川—紙治の浄瑠璃で有名な蜆川は泥溝のやうな川だつたが、それも明治四十二年の大火後埋め立てゝられて今は無くなつた、『蜆川、名のみ残るが悲しかり、恋ゆゑ死にし人をおもへば』である。 類焼して再興後未だ日の浅い町並であるから、建物も綺麗で、町も大通りの方はなかくひろい。

曽根崎はむかし湯屋の多かつた処で、この花街の起原は湯女だといふ話である。 堂島新地が花街としての跡を絶ちかけた享保の初年頃がらこゝが盛り初めて、堂島に米相場の立つた享保十六年から頓に興隆し、ついに今日に至つたものである。

現在芸妓扱席 九軒。 貸席百十八軒。 芸妓約九百名。

といふのが概況で、もとは本廓であつたが、例の大火後娼妓扱席は全部他の廓へ移転を強要されて、今は全くの町芸妓街、大阪の花街で娼妓の影を認めないのは此の地ばかりである。 そこに自づからひとつの特色と、誇りが生れて来てゐる。

北陽の妓風情調

南地が東京に於ける新橋の位置にあるものとすれば、北陽は柳橋に該当すべきか?粹と意気が此のシマの生命で、芸事は大阪の四廓を比較して此地を第一に推さねばならぬ。 南地は、五花街の合併であるがため、多少雑駁の嫌ひあるを免れぬが、北陽には整正たる統一がある。 妓風にユニティがある、—娼妓の混入して居らぬ現在の組織が、そのユニティの保たれる一原因かもしれないが。

南地を華やかな牡丹花とすれば、こゝは清々しい杜若、紫のゆかりも深い風情ありと言はん。 南地が商人向きで、船場の旦那衆を対手とすれば、こゝは官省向きと云つた風がある。 何かの催しをその演舞場に見るとき、この花街ほど洋服の看客の多いところは無い。 特有の情趣の一面がそこに窺はれると思ふ、

この点では柳橋よりも新橋に似たりとせねばならぬ。 南地の風俗が黒襟の不断着、昼の間の宗右衛門町にその特有の美を認むるとすれば、こゝは白襟の紋付にその気品が偲ばれる。 華やかならぬ「粋で高等」なと言つた此のシマの美人の特色がある。

事実また此シマの芸妓は白襟をつける機会を多く有つ。 昔は大名の倉屋敷が皆な北に在つたのと、前にも云つた如く享保十六年堂島に米相場の立つたのを原因として、此の地の芸妓は所謂おふれまい芸妓—今日でいふ宴会のお約束芸妓であつて、外シマの芸妓よりは此点を北陽の誇りとした。 この点では今日尚ほ大阪一の南地もかなはない。 従つて貸席にも大規模のものが多く、「お約束」に芸を売りものゝ意気が、常不断の妓風を作るに至つたと観るを至当とする。

但し佳い芸妓は図抜けていゝが、悪いのは又ガタ落ちがする、特等芸妓と三流芸妓があつてその中間の芸妓の居らない処である。 これも此のシマの特色の一つと言つていゝであらう。

代表的貸席

一流株としては平鹿、瀧柳、松糸、河内屋などを挙げ、元の名妓小金が経営してるといふ点で伝法屋、それからさくら家なども佳いお茶屋だし、文楽座の三味線の野澤勝市が勝家といふのを経営してゐる。

料理屋では元此シマの太棹芸妓で鳴らした愛助のやつてるあひすけなど、一寸毛色の変つた所であらう。

遊興制度

芸妓の花代は大小共に一本十五銭、その計算法は一寸面倒である。

△平日 午前六時から午後六時迄、四時間以内は一時間に付十本宛、その以上は一時間六本の割。 午後一時から同十二時迄、四時間以内は一時間毎十一本、以上は一時間七本の割。 午前六時—夜十二時迄花数制限六十九本。 明し花(夜十二時以後午前六時まで)十八本。 通し花八十七本。

△紋日(一月四日より十日迄。 同廿四。 廿五の初天神、紀元節、天長節、明治節、七月廿四廿、五日の天神祭)午前六時より午後十二時迄、四時間以内は一時間十二本、以上は一時間八 本の割。 同上花数制限八十四本。 明し花十八本。 通し花百二本。

△大紋日(正月三日間)午前六時より午後十二時迄、四時間以内は一時間十五本、それ以上は一時間十五本、それ以上は一時間十本の割。 同上花数制限百十四本。 明し花十八本。 通し花百三十二本。

貸席の席料は一人に付一円。 花代は此シマが一番高く、南地などに較べると格段の差である。

北陽踊と天神祭

南地のあしべ踊に対して此地には「北陽踊」がある。 大正五六年頃から始めたもので歴史は浅いが、飽くまで芸本位で、見世もの的なところがなく、常に若手の踊り手をすぐつて出し、出し物も先年岡村柿紅氏に依頼して「彦根屏風」の彼の図柄をそのまゝ舞台に応用したるが如き、そこに此のシマの特色が見られる。 だから秋の温習会の如きは一層堂々たるもので、芸好きの客には喜ばれてゐる。 三四年以前石割松太郎氏の長唄「日本八景」を出したが、温習会に新作を出したのはちよつと珍らしかつた。 尤も其の年の秋は此地ばかりでなく新町でも常盤津「室戸岬」(石割松太郎氏作)を出すし、堀江が長唄で「雲仙」と「木曽」(平山蘆江氏作)を出すし、八景流行ではあつたのだが。

又、南地の戎詣でに対して曽根崎は一月二十五日の初天神に勢ひこむ、此日も宝恵駕籠が出て厄除の白羽の矢を受けて帰る。 福貰と厄除は積極と消極でえらい相違だが、北の天神も朝早く詣でる者に福を授ける、三百の鴬の中にたゞ一つ黄金製のがあるといふ、なにウソではないさうな。 総じてここでは天神さまに力を入れる。 それで紋日にもなつてゐる訳だが、七月二十五日の天神祭の夜の賑ひはたいしたもので、御興が船で渡御するのを観るために屋形船が出る。 今日は最早ほん物の屋形船でなく、伝馬船に屋形を取付けた間に合はせものだが、水都大阪の名物だつた遊船の面影、そこにわづかに遺つて居ると云へば言へる。 その船は北浜の「網清」や大川町の「柴藤」などが承つて出してゐるやうである。

余録

芸で売る此花街の名物には、芸の蟲と云はれる佐賀おくにさんが居る。 第五回博覧会が天王寺に開かれた際、大阪ではじめて余興を演じた、その時出演したのがおくにさんで、これを機縁として江戸の芸が大阪へ移入されたのであつた。 北陽が大阪の花街のうち一番東京くさいのも之が為で、おくにさんは今でも此花街の芸の顧問である。

○君はゆく、白羽の矢をば髪に挿し、恋のわざはひ這れよとゆく。 吉井勇

○何となくむなしきこゝろ、河を見る、天神まつりすぎて幾日は。