南地五街

電車は戎橋筋、千日前、日本橋、或は日本橋一丁目等の停留場下車。 目下道路改装中で頗るゴタゴタしてゐる。

大阪市の殆んど正中央、道頓堀川を挟んで北の河岸地「宗右衛門町」、南岸では道頓堀各座の東西「櫓町」、その裏手の芝居裏、本通、裏坂町などを含む「坂町」、それとは千日前通をへだてて西に連なる「難波新地」一丁目、二丁目、三丁目、戎橋西の河岸地「九郎右衛門町」。 この五街を総称して「南地」或は単に『南』といふ。 太左衛門橋を渡つて南へまつすぐ行つた処が有名な「千日前」、その中程から西へ入ると食傷新道の「法善寺」、戎橋から北ヘ一直線に通じてゐるのが心斎プラの「心斎橋筋」で、何のことはない東京の浅草と銀座と新橋と元の白木屋横町を一しよにして、も一つおまけに新宿遊廓でもくつつけたやうな盛り場。 大阪の歓楽境はこゝに止めを剌す。

寛永三年に安井九兵衛道頓といふ者が、道頓堀の繁栄を計らんが為め遊所及び芝居の設置を願ひ出て、その許可を得て芝居を現在の道頓堀に、遊所を下難波領—即ち今日の九郎右衛門町の裏難波新地に創設したのが南地の草分けで、その後六軒町、新屋敷、宗右衛門町と相互で遊所並びに町芸妓ができたのが打つて一団となつて今日の「南五花街」を成すに至つたのである。

芸妓扱席 二十一軒。 娼妓扱席十四軒。 貸席約五百軒。 美妓 三千。

といふのが現在の概数で、大阪での本格であるが、時勢の然らしむるところ今日では殆んど町芸妓の風趣を成して居る。 娼妓は凡て「送り込み」と称する種類に属し、娼妓扱席から貸席の招聘に応じて出張するのである。

宗右衛門町のカラア

花街にヂミな情調といふものも少いが、南地はわけて華やかで、四廓の中で最とも濃艶な情調を漂はせてゐる花街である。 『南地は容・芸を兼備し』といはれる位、美人も多いし芸も達者なのが多く、近年の名妓として全国的に嬌名を喧伝された富田屋の秀勇八千代など皆このシマの芸妓であつた。 譬へていはゞ牡丹花のパツと妍を競へるが如く、且つ時代の推移に最もアダプトした情趣と風格とを持してゐる。 春秋の踊の催しにしろ、この地の妓風にしろ、牡丹花でなくば満開のダリヤといふ趣きがある。

芝居の桟敷にこれら歌吹海裡の妓を見れば、どこのシマの妓であるといふことが大体見当のつくものだが、その風俗の然らしむるところ、ドコとなく垢抜けのした当世風、流行の先駆はこの土地を以て第一とする。 東京の花街に比倫を求むれば「新橋」であらう。

但し此五街を代表するものは「宗右衛門町」で、有名な芸妓扱席及び貸席は殆んど此の町に集中して居ると云つてよく、以上の礼賛も主ぱら宗右衛門町に対してゞある。 殊に河合のダンス園の如きは他の廓にない一つの異色であると云へる。 一現茶屋は芝居うらに多く、阪町には「ボンヤ」といふ最も軽便主義光家も有るさうな、場処柄であらう。

有名な賃席

富田屋、伊丹幸、大和屋、大西屋、丸屋、福田屋などで、新進気鋭、大いに時代の色を見せてゐるのに新大和屋、河合(ダンス園の河合が経営してる貸席)がある。 従来の南地の妓風に新進の風を装はふとしつゝあるもので河合が急進派とすれば新大和屋は漸進派。 それから今一軒は成功美談の持主お政の「平野」、これも逸してはならぬであらう。

遊興制度

貸席へ上つて芸妓を招んで遊ぶことは総記に於て述べた通り、芸妓舞妓の花代は一本十五銭、之に対して遊興税が二銭、花敷の立て方は左の知し。

平日 紋日(一月四日より同十日迄及び紀元節)大紋日(正月三ヶ日、四月三日、十月二一日)

午前六時より正午迄 十二本 十四本 十六本

正午から午後六時迄 三十本 三十五本 三十九本

午後六時—夜十二時 四十本四十九本五十二本

「明かし」(夜十二時以後翌朝まで) 十八本 三十五本 四十五本

「通し花」(芝居行、遠出) 九十本 百本 百十四本

「約東花」(四時間)五十本。 「呼出し花」四本。 「貰ひ」「座変り」は一時間経過後。 祝儀は無し。

貸席の席料は一人に付一円、仲居への祝儀は客の随意。 つまり二時間又は三時間といふ短かい遊びは比較的高いが、長時間の遊びは非常に割安になる。 即ち正午から夜の十二時迄遊んだとしても、平日ならば花代は十円五十銭にしかならぬ勘定だから、遊びよい訳である。

新案「おまかせ」制度

さしもに全盛を誇る「南地」も時勢には勝てない、殊に道頓堀のカフエ街を控えて打撃は相当に大きい、しかしそれでも東京の諸花街の如く、あせりにあせつて無闇と玉祝儀を引下げて四苦八苦もがかず、数年前にきめた揚代をそのまゝ維持してる所は、さすがに大阪。 どつしりとした底力がうかゞはれて頼もしい所がある。 —と言つて毎晩総芸妓の四割以上がお茶を引いてる有様ではやり切れぬとあつて、衆智を絞つて考へ出したのが目下好評を博してる「おまかせ」なる新制度である。 おまかせは即ち客の方でも貸席でも芸妓を指名せず、一切を芸妓扱席に一任する制度で、ひまな芸妓は凡て即刻お座敷へ出られるやう身仕度をして、扱席に詰かけてゐる。 扱席ではお座敷がかゝると、順番に従つて、詰めてゐる芸岐をさし向ける。 それぞ呼ぶ方でも誰れが来るかわからないが、兎に角電話をかければ時を移さずやつてくる上に、花代は一時間六本(一本十五銭、遊興税二銭、計一円二銭)といふ極めて安直な値段である。 格別馴染芸妓のない客は、これでも充分済むし、馴染みの妓をかけて其の女を侍つ間、女中対手に飲むよりも「おまかせ」でも呼ばふといふことになつて、羽が生へたやうに「おまかせ」が飛ぶ。 すると大阪の芸妓は姐さん株でも、東京とちがつて勘定高い、お体裁や見栄などサラリと脱ぎすてゝ、お座敷が明くとそのまゝ「序に一かせぎ」といふので、扱席へ行つて控えてゐる。

おまかせで招んだ客、よばれた芸妓が、案外お馴染みだつたりして『なアんだ、君かい』『まアこちら、おまかせなんぞ招んで憎らしいのね』なんかといふ喜劇も起つて、そのまゝ本座敷に直ることも少くない。 客にも芸妓にも便利な制度、事実上の花代値下である。

南地名物「あしべ踊」

祇園の都をどり程全国的に有名なものではないが、毎春行はれる南地の「あしべ踊」は、兎に角大阪花街の一名物として、満都の人気をあしべ館に集めてゐる。 都踊と同じく切符制度で、一夜四回乃至五回開演し、踊は年々新作して眼先きを変へ、八段返しの大道具などを使つて華々しく大衆的・興行的にやるのがこゝの特色。 たとへば先年西遊記の一部を出して宙乗りの孫悟空を見せるとか、あるひは大鵬の翅を舞台一面に見せてその上に踊り子姿の芸妓を乗せるとか、或は諸国風俗の俚謡尽しを出して、出雲の安来節を筋の立つた名ある芸妓にやらせたりして、頻りに観客を喜ばせてゐる。 春の踊りに対して秋は温習会が行はれるが、これは名に負ふ通り真の温習会で公開せず、見物は平素遊ぶ客ばかり、すべて貸席で場取りをして入場する。 (これは各廓ともに共通。 )

南地名物「宝恵駕籠」

恋の重荷のナ、島の内、おくりむかひに曳く駕籠の……と、浪華の花街情趣のひとつであつた、女郎の送り迎ひに用ゐた「色駕籠」といふもの、今も十日戎の「宝恵駕籠」にその面影をとゞめて居るのはうれしい。 女郎が乗るからいろ駕籠で、一名茶屋駕籠ともまた勘当駕籠とも云ふた由。 後には主として芸妓が乗つたもので、それももつぱら朝がへりの迎ひに用ゐられてゐたらしく、日露戦争の直後私がはじめて大阪へ行つた時には、まだ此のいろ駕籠があつて、寝みだれ髪を俥の幌にかくして銭輪をガラガラ鋪石にきしらせてゆくに較べると、ゆらゆらと駕籠でゆくのはなるほど色つぽいものだつた、で、神詣でなどには必ず色駕籠で行つたもので、その遺風が今日今宮の戎詣でに伝へられて居るのである。

今宮の戎さんは上方切つての福徳神で、毎年正月十日は、福を人生の目的とする大阪の人々が福を授かりにゆく日である。 大阪の気分を最ともよく発露した年中行事として、大阪を研究する者は一度は是非見ておくべきものであらう。 十数町の間、往く者、還るもの、唯だ人の頭で波打つてゐる。 その欲と徳との押し合ひへし合ふ間を、ホイホイのかけ声勇ましく、飛んでゆくのが宝恵駕籠である。

紅白の縮緬で巻いて、花を飾りつけた駕籠。

紅紫白緑はなやかな春衣に花を簪した芸妓。

その駕籠を取り巻いて、赤い鉢巻、友禅の袖を片袖脱いだ幇間。

お福さん(これは人形)の駕籠を真先きに、幾挺かの駕籠をつらねて、ホイホイホイ。 ホイ駕籠をもぢつての宝恵駕籠である。

福を授かつた満かな証として、おみやげに擔いでかへるものは一枝の笹に小判、千両箱、立烏帽子、いれ桝、さい槌、たばね熨火、はぜ袋、とり鉢、銭がます等々、さてもよく考へて集めたものである。