玉の井風景

廓内はさながら碁盤の目のごとく又原稿紙の如し、縦横に露路が通つて、左右に一寸の隙間もなく、ギシギシと置屋が並んでゐる。 いづれも一棟数間の同じ様な棟割長屋で多くは二階建てだが一戸の間口は広くて九尺、狭きは六尺、軒には一爽に艶消し丸ホヤの電燈を輝やかせて、………、……、………、………、………………、……………、…、…、…………、入口の戸が硝子格子になつて居るのも時代相と云はふか、二人並んでは通れぬ程の狭斜にも、どこか一種の明るさがある。 格子に並んで同じ磨硝子の半障子、多分その奥に美人が控へて在すであらうと想像される障子の一枠は果せる哉切穴の如く、見通しの利く並硝子になつてゐて、表を素見して客を呼びかける声、北は青森から西は九州の端に至るまで、南部訛りに秋田弁、仙台訛りに常陸言葉、越後言葉に佐賀訛り、中国訛りに九州弁等々日本国中の地方訛りこの処に集まると言つては大袈裟かも知れぬが、まだ都馴れぬ女の多いことは確実、はゝあ此奴はどこの国さの女、こいつは何県あたりの女と鑑別してあるくだけでも相当の興味は持てさうである。 兎に角往年の浅草十二階下その儘の光景である。

高等女学校を優等で卒業したといふ女がゐるかとおもへば「花電車」とあだ名を取つた上海がへりのエラブツ、すばらしい曲芸を演じて人気を一身にかき集める女が居り、いかにオホホルミンを飲んでもとても若返りさうにない荒み切つた大年増が、十五か十六と見える垂髪の少女に化けてゐたなど、何しろすばらしい世界に相違ない。 しかも素見の客は今日は吉原よりも玉の井の方が多く、一夜千や二千の素見は来たか来ないかのやう、此の朱引地内をぐるりと一すると一里以上、時間にして二時間を要するさうだが、それを一めぐりして来ないと眠れないなどいふ御定連が少くないさうである。

露地は横町から横町へ連なり、裹から裹へ通じて不馴れな者は、うかうかすると出口がわからなくなつてしまひ相なところ、全たく現代八幡不知、帰りの道を忘れて抑留さるゝに至るもあながち無理では無いやうに思はれる。 樋口一葉女史生きてあらば「新にごり江」の記を書かせて見たし。 高等女学校を卒業した女が多く(噂ほどでもあるまいが)月に千円近くも稼いで雇主に頭をはねられても尚一ヶ年三千円から貯金する女があるといふ噂。 彼の頃とは兎に角世相がちがつて来てゐる。