尾久

上尾久一八五七番地から同五八、六〇、六七、七〇、七一、七二、七七各番地に亘る約一千二百五十坪ばかりの土地が所謂指定地で、芸妓屋、待合ともに此一画に集中してゐる。 電車の便は王電の「宮の前」が最も近くして約三丁。 然し料理屋あそびをするのは「熊野前」又は「小台」が近く、四五丁で荒川土手に達する。

円タタは浅草公園から四、五十銭でゆく。

荒草ぼうぼうたる荒川右岸の土手そとに、鉱泉らしいものゝ湧出を発見したのが当地発展の基をなし、つれ込を当込みの鉱泉旅館が続々建ちならんで、日に月に栄えて行つた発展ぶりはすさまじいもので、その発達の径路は前にも述べた通り西郊の五反田と規を一にしてゐる。 指定地の許可を受けたのは震災の前年で震災後の発展は更にいちじるしく、大正十四年三業の組織成つて、一時は三百に近い多数の芸妓を擁して、東郊花街の王座を占めたものである。

芸妓屋 五十四軒。 芸の大一〇〇名、小一四名。 幇間二名。

料理店 二十軒。 待合二十八軒。

今日は聊か頽勢にありとは言ひ條、尚ほ新市街花街地として一方の雄たる実勢力を失はず、あこれと取立てていふ特殊の情調もないが、万事お手軽で安直な点が大衆の支持を受けてる花街である。

河内家、三河家、春日家は遊芸師匠時代から今日に引つゞく当花街の草分で、もう一軒橘家といふのがあつたが、これは最近廃業してしまつた。