五反田

省線電車の五反田駅附近、電車の窓からすぐ目の前に鉱泉旅館何々と書いた屋根看板が、頗ぶる非美術的にゴタヽと見えてゐる一廓で、地域からいへば大崎町上大崎百十番地を中心として、上大崎、下大崎及び谷山方面に伸びてゐる。 市内電車の便は頗ぶる悪い。

短日月の間にもつとも急激な発展をした新花街として、東に「尾久」西に「五反田」がある。 而もこの両地が共に最初鉱泉を呼びものとして発足したのも対照がちょつとおもしろい。 鉱泉と云つても無論たいしたものではない、幾分かの薬物を含んだ水ぐらひは何処にもあるものだが、兎に角田圃の中に鉱泉の湧出を発見して鉱泉旅館が起り、その旅館を中心に一種の女があらはれて遂に今日の花街をつくるに至つた径路は、極く有ふれた行き方でもあるし、少しく東京に古く居る人ならば各自目撃して居る所であるから、敢て茲に説明する迄もない。 芸妓営業の指定地認可を受けたのが大正十年五月で、市内で行き詰つてゐた芸妓屋が続々此の新開地を指して集まつて来た。 一時は実に素ばらしい景気であつた、その後へ例の大震災で、そのおかげで又一ふくれ膨脹したのであるが、丁度品川と渋谷へ同距離の中間地帯で、地の利も好かつたのである。

「新開地のこと故、何等都の客を引くに足る名物はない、せめて酒でも良くしろ。 」

といふので、最初はどこの家でも申合せて「黒松白鷹」を使つたものだつた。 それも賢明なやり方であつたと云へる。 大正十五年四月持合指定地(約五千坪)の許可を受けて完全な三業組織となり、

現在芸妓屋 大十軒。 芸妓(大小併せて)百五十名。 料理店 二十三軒。 待合 四十軒。

を抱擁し、情調とか気分とかいふ点に於てこそ取立てゝいふ程のものは無くても、兎に角その規模に於て、品位に於て、渋谷と共に西部を代表する二大花街である。

芸妓屋の草分は「大国家」で、大森海岸の鯉家から分れて遠征して来た姐さん。 鷹大国、光大国、福大国、金大国、松大国、芳福大国など屋号にその系統を物語つてる芸妓屋が多い。 芸妓中の元老株は鷹大国の高助、瓢家の小さん、高の家のしげ香、鈴むらのいろはなど。 ダンス芸妓に宝家の小松。 福大国の福丸あり。 時勢に即した洋装姿もピタリと身に合つて、地元の花街よりも却つて新橋あたりへ遠出して稼いで居る日が多いと言はれる程の全盛ぶりである。