品川花街の沿革

花街の沿革などは元来野暮な詮索だが、品川のやうな古い遊廓では多少その必要を感ずる。 慶長六年旅籠屋渡世で飯盛女を置いたのが、この花街の濫觴で、徳川幕府の初期には江戸以外城下街の遊廓を絶対に許さず、地方は宿場、船着、門前町にのみ限つて許したものだが、江戸の出口では品川、千住、板橋の三箇所が遊女を置くことを許されてゐた。

即ち品川遊廓は江戸出口の花街としてもつとも古い歴史を有するものゝ一つである。 徳川の中期以後は深川や新宿のために圧されてゐたが、それでも薩摩の家中と増上寺の僧侶に依つて繁昌してゐたことは前に掲げた川柳に依つても明らかなことで、その事実を一層鮮明に物語つてゐるのは、『品川の客人べんのあると無し』の一句である。 人扁のあるのは侍、なければ即ち寺である。 百八十余年前の延享年間には本宿に十九軒、新宿に二十三軒、橋を越して向ふに十軒、都合五十二軒の妓樓の在つたことが記録されてゐる。 是れが恐らく品川遊廓の全盛時代であらう。 芸妓は八代将軍綱吉の時代にすでに若干居つたことが明らかで、文政から天保にかけては毎に三十四五名の芸妓が居つたらしい。 当時三十四五名と云へば可なり多い方であつた。

水野越前守の過酷な取締令によつて一時ひどく寂れたが、維斬前後に於て盛り返し、明治以後に於ては慶應義塾生が増上寺の僧侶と薩摩武士に代つて此の花街を維持した。 以上が大体の歴史である。

現在の品川花街芸娼妓併置制であるが、どつちかと言へば娼妓本位の花街で、

現在芸妓屋 十七軒。 芸妓 約五十名。 料理店 十四、五軒。

妓樓 約四十軒。 娼妓 約三百名。 引手茶屋 三軒(山本、一力、松家)。

といふのが数字的花街の実況である。 こゝには待合茶屋はない。