待合の主なるもの

松みどり、梅川、住もと、松葉家、ふみ本、田毎などいふ所か。 尚ほ待合の中に狐「けん」といふ家があるが、それが昔の「きつねけん」でないことは言ふまでもない。

向島情調なる程歌沢の夕立にきつねけんが唄はれ、端唄の五月雨に水神の離れ座敷が絃に乗つた頃の雅趣は到底、今日の向島には望まれない。 それでも、水神などは未だ兎に角捨てがたい趣はあつて、下町からの連込には随一の家であらう。 何んと言つても矢張り隅田川を控へてゐるだけに、水神附近は勿論、大倉堀の待合あたりの夜の風致には、さすがに捨てがたい味がある。 夜の入金、弘福寺あたりの情景も川の此方の花街には無いところだ。 隅田川は対岸の浅草から暮れ初める、観音堂の甍・五重の塔が先づ夕闇に掻消されて、待乳山が水に沈むと、花川戸、今戸、橋場にぽつりぽつりとつく燈火、しづかに水に映り水に流れる美しさは、この花街の生命である。 柳橋の代地河岸から対岸に肥料倉庫の群を眺めてゐる趣とはちよつと違つて夜の向島は未だ全く亡びたりとは云へない。