こんにやく島沿革

霊岸島のことを今日でも「蒟蒻島」と呼んでる人があるが、それは元此の一廓は埋立地であつて、工事が複雑で地盤が非常に脆弱であつた為起つた名であつた。 明暦年間吉原遊廓が日本橋葭町から浅草の郊外へ移転された際、後に取のこされた多くの踊り子(今日の所謂芸妓)は各方面に分散し、就中当時の盛り場であつた深川、両国附近に最も多数集中しつつあつたが、霊厳島は船の発着場で船頭荷役夫及び商人等の往来頻繁なところから、漸次此の方面に出稼ぎをするに至り、遂に一の岡場処をなすに至つた。 即ち安永三年発行岡場処細見には「こんにやく島」として、独立せる花街として其名を留め、当時遊女を抱えた茶屋は九十三軒の多きに達し、遊船の川田、料亭の川端等は特に著名であつた。 又山王祭り名物四十三本の山車の殿りは常に此地で承り、その茶筅茶杓の鉾が有名であつた。 思ふに霊厳島の花街が深川風の情調を帯びて、最も繁栄したのは其の頃であつたらう。

霊岸島情調なるものを明瞭に指摘し得る程私は此花街については知らないが、兎に角東京としては前述のごとく可なり古い歴史を有つた花街で、今日は多少文化の歩みから取残されたやうな嫌ひもないではないが、同時にどことなく江戸情調の偲ばれるものがある。 それが、『霊厳島も、あれで一寸おもしろいととろだよ』と云はれる所以であらう。 近くに兜町・蛎殻町を控へてゐるから、その方面の影響をも少からず受けてゐることは争はれない。