新島原遊廊の跡

新富町花街の沿革はちよつと面白いものがある。 即ち此あたりは旧幕時代膳所藩邸・彦根藩の別邸などのあつた処であるが、明治元年築地に外国人居留地を開くと同時に、互市場の繁栄を助ける目的の下に、こゝに新たに遊廓をつくつて「新島原」と命名し、廓内を八重咲町、千歳町、青柳町、初音町、松ヶ枝町、呉竹町、桜木町、及び花園町の九ヶ町に割付けた、それを現在の地名に割当てゝ見ると

八重咲町—新富町一丁目。 梅ヶ枝町—新富町二丁目。 呉竹町及青柳町一二丁目—新富町三丁目。 初音町一二丁目—新富町四丁目。 花園町—新富町五丁目。 桜木町及び千歳町—新富町六丁目。 松ヶ枝町—新富町七丁目。

即ち略今日の吉原遊廓に匹敵するほどの大規模のものであつたが、帰期した築地互市場の発達思はしからず、明治四年八月これを撤廃して吉原に合併し、その跡地に隣接大富町の一部を編入して、新島原の新と大富町の富を取つて「新富町」と命名の上市街地とした。 その時廓芸妓の一部は尚旧地に踏止まつて御神燈を掲げ、わづかに余喘を保つてゐた処に、劇場新富座ができてから俄かに活気を帯び、「櫓下芸妓」の名は市内に喧伝さるゝに至つたのである。