浅草の今昔 小ゑん—千代龍。

観音堂附近一円の地が公園となつたのは明治六年であるが、実は公園といふも名ばかりで、「奥山」の丘阜を切開いて千束村の耕地を埋立て、その一隅に瓢箪池を造つたのが漸やく明治十四年から十五年にかけての仕事、次で雷門から仁王門に至る両側の出稼ぎ店や掛茶屋、飲食店などを立退かせて銀座の舗道をつくるに買込みすぎて余つた煉瓦を、持つて来て敷詰め、仲見世の新装の成つたのが越えて十七八年頃。 それから歩一歩と今日の歓楽境乃至は花街を形づくるに至つた経過を語るだけでもこれは一寸おもしろい話だと思ふが、長くなつて始末に終へなからう。

小ゑんといふ芸妓のあったを御存知か? 小ゑんの艶名は一時東京の花街を風靡する程の勢ひであった。 と器用な事は言っても実は私も知らない、東京に出て間もない頃の事で絵端書だけは拝見したことがある、少し淋しい顔だったが、どれもこれも夢見るやうなぼうとした眼光の妓で、これが東京に於て絵端書で売出した芸妓の元祖であった、売出しは日露戦争の少しばかり前だそうである。

次が所謂「五人組時代」なるものである、曰く千代龍、花子、太郎、次郎、雪江。 さうだね最早十七八年になるかね、その頃までは未だ浅草の石新道にも、弾かせても、唄はせても、相当腕もあり、張もある、江戸前の芸妓の褄取る姿が見受けられたものだった。 その五人組の山木千代龍はちよっと小ゑんに似た美人だったが、吉右衛門と熱くなった結果、到頭吉右衛門は柳橋の芸妓だった前の女房を離縁して、千代龍と夫婦になったのである。

数に於ては兎に角、あの頃が浅草花街の全盛時代では無かったかしらん。 古い話ばかりして現在を語らないのは、実は今日の浅草については殆んど知る所がないから。 甚だ相済まない。