浅草の歴史 「一つ家」の伝説—いてふ娘お藤。

浅草は、おそらく東京で一番古い歴史を有する花街であらう。 浅草観音堂は十八間四面の大伽藍、その本堂の天上の一隅に国芳筆の「一つ家」の絵馬があるさうな、それは浅草観音縁起と共に武蔵野における最とも古い伝説で、「日はくれて野には臥すとも宿借るな、浅草寺の一つ家のうち」云々と、今から四百四十余年前の著である「回国雑記」にすでに古への伝説として揚げられてあるので、その「古さ」の程も知れやう。 浅草公園附近が一面浅茅ヶ原であつた頃、その一つ家で旅人の袖を引いて色をひさいでゐた娘は、立派な私娼でなくて何であらう。 浅草といふ地名の起因に就て「求涼雑記」に曰ふ、『……按ずるに浅草とは深きに対したる名にて、浅野、浅田、浅井等のごとし。 …是に依れば豊島の郡も武蔵野の内にて草ふかゝりつるに、ひとり此地は観世音の霊場にて、おのづから聚落となり、荒蕪のひらくること他の地より先だちたれば、浅草の名は起りたり」と、此の説真相を得たるが如し。 尚この外此地はもと東海官道に当り、延喜式駅遞「豊島」の水駅のあつた処、常に旅人の往来の絶へなかつた処であることをも稽へねばならぬ、今日の「馬道」は蓋し駅路の転訛した名称であらう。 上古時代からの宿場で加ふるに流行仏の門前であつた此の地に、逸早く私娼街の出現を見るに至つたのは、むしろ当然の径路であつたのである。

彼の有名な笠森お仙と併せて「明和の三人娘」として、流行唄に歌はれ、錦絵にして売出された銀杏娘のお藤、古屋のお芳、その二人までは此の浅草の女で、お藤は観音堂のうしろ—今もある銀杏の樹の下に店を出してゐた揚子屋の娘、お芳は二十軒茶屋の古屋の娘であつた。 二十軒といふは、慶應元年に焼けた雷神門(雷門)から仁王門に至る今日の所謂仲見世に、むかし三十六歌仙にかたどつた三十六軒の歌仙茶屋があつた、それが後に二十軒になつて二十軒茶屋と云つた頃の一軒で、お芳は赤前垂をかけて「お福の茶を召せな」どゝ呼びたてゝ、通行の善男どもを悩殺してゐた美人である。