溜池と麦飯

赤坂花街の別称を「溜池」とも山王下ともいふ。 山王下の意は説明する迄もないが溜池とはむかし其処に大きな溜池があつた処から起つた名で、『紫の一本』に曰ふ「赤坂土橋の堀の末なり。 ………池へ近江の鮒を放す、されども近江の鮒は平目なり、此鮒は丸目なり、土地によりて魚の形も替るや」と、また何代目かの将軍がこの池で水泳をやつたといふ話も残つてゐる。 つまり自然の溜池をそのまゝ江戸城外濠の一部として利用されて居つたもので、明治二十一年その池を埋立てゝ出来たのが即ち今の溜池町である。 徳川時代その溜池につゞく水田を埋め立てゝ市街地としたのが「田町」、しかし人家などは極めてまばらで空地が多く、田町六丁目のあたりを今に「桐畑」と呼んでゐる老人のあるのは、むかしの此のあたりの光景を如実に物語つて居るものである。 徳川文化の爛熟時代—文化文政の頃此あたりに四五軒の私娼宿があらはれた、それが即ち当花街の濫觴で、当時の人はそれを「麦飯」と呼んでゐた、蓋し吉原を米の飯に譬へて此方を麦飯と言つた訳なんださうだが、小さな武家屋敷や寺などに取巻かれた淋しい溜池のほとりに巣づくふ私娼には、ふさはしい名であつたかも知れぬ。 その麦飯は例の天保度の改革で一蹴されてしまつたけれど、嘉永時代にはすでに料理屋三軒、芸者が二十人も居つたといふ、明治になつて復一度頗ぶる寂れ切つたが、春本・林家の二軒が立つて各十数名の芸妓を抱へ、八百勘及び三河屋の両旗亭と力を協せて発展を企図して以来、めきめきと頭を擡げ、遂に新柳二橋と肩をならべて、山の手花街の代表権を握るに至つたものである。