その妓風と情調

日木橋元吉原の遊廓が解体して三箇所に分れたとき、その大部分は浅草の新吉原に移り、一部分は新柳町に行くし仲の町(今日日本橋仲通り)に在つた部分はそつくり旧檜物町附近に集つて、別に新らしい花街をつくつた、それが即ち今日の日本橋花街である。その後また深川が瓦解すると、その一半は柳橋に流れこみ、一半は此地へ移つて来た。かく花街としての歴史も相当古い上に一時大江戸を風靡した侠仕立の深川染、羽織芸妓の血と意気とを伝統し、加ふるに魚河岸を控えて居た所為もあらう、張の強いことは此地を以て第一とし平素は至つて地味で派手をこのまず、着物に譬へればちよつと結城紬と云つた感じのする妓風のところだが、一肌脱ぐとなると利かぬ気の気性はさすがに江戸の真ン中の芸妓らしい気分を偲ばしめるものがある。飽くまで下町風で多少でも昔の町芸妓気質の残つてるのは先づ此地らであらう、従つて官吏とか政治家には向かず、叉よくしたものでさうした客は余り此土地へ足を入れない。

西河岸の地蔵さまの縁日に、草花や金魚鉢の涼しく並んだ間を、お座敷がへりの半玉が、うすものゝ派手な長い袖をひるがへしてゆく美くしさは、さすがに花街らしい風景。日木橋の夏の夜の涼しさは其処から湧くかとおもはれる。