柳橋情調

柳橋情調の一部はすでに沿革の条に於て述べた通り、大川端に沿ふた家でなければ、ほんたうの柳橋気分の出ないことも既記の通りである。 要するに柳橋の生命は初夏の頃から秋口にかけての間である。 或る家のもつとも川面に突出た裏座敷では、窓から手をさし伸べて月光を掬ふことができた。 秋風が当つて鰡の三歳にそろヽ脂肪の乗つて来やうといふ頃、暖たかい満潮の月の光に浮かれてガバと波上に躍る銀鱗にも、堪らなく風流子の心はそゝられるであらう。 声色屋といふ奴、愚にもつかぬ独り好がりの声音を出して唯だ小うるさきのみ何の興味もないものだが、船から竹竿の先きに小袋を附けたものをぐぃと座敷の窓へさし出して、御祝儀をもらつてゆくこゝの声色屋は、たしかに『柳橋景物詩』中のものである。 船で写し絵を見せたといふ頃の柳橋に至つては一層なつかしい。

夜が更けて四隣声しづまると、岸うつ水の音が頓かに高まつて、ひたヽと枕に通ふでくるのにも趣きがあつたし、元来昼のものではないこゝの遊蕩気分も、冬の日の正午ぢかく、雲低く垂れた隅田の川面に霰のたばしるを眺めながら、少し熱燗にしての爪弾きなどは決して悪い心持ちのものではなかつた。 代地から見た今の横綱河岸は倉庫ばかり、中には無砂白米などペンキで塗立てゝ甚だ殺風景なものであるが、むかし彼の辺は例の「百木杭」の樹立して居つたところで、藤堂屋敷の塀から大きな椎の木が河岸へつき出てゐた、そして此方岸の首尾の松(今専売局煙草工場敷地にあつた)と吉原通ひの色話をしたといふ乙な小噺や、その首尾の松の下に屋形船が一艘、梅幸のやうな芸妓と羽左衛門のやうな船頭が、雷をおそれて慄へてゐる国貞の絵が、なつかしく想ひ出されたりした。