下町花街の代表

柳橋は安永明和と云った時代(百五六十年前)からの花街である。 橘町、薬研堀附近にあったものが其の濫觴で、弁天おてるや橘町のお富などいふ名妓の名は、未だに世人に記憶されてゐる。 その頃の芸妓は道を行くには凡て振袖で、座敷に出るときに留袖を着たものである。 文化の頃から振袖を着なくなり、始めて「柳橋芸妓」の名に依って呼ばれるやうになったが、次で眉を落し歯を染めることが行はれたりした。 然し当時の柳橋はまだく風流場裡に覇を称するほど盛んなところではなかつた。 それが天保年中の所謂江戸大改革で、深川の全盛が水野越前守の鎗玉にあげられて湮滅となつた結果、羽織芸妓の大半が此地に流れこんで来てから俄に活気を呈するに至つた。 即ち巽の死灰が柳橋に於て燃え出したのであつて、嘉永の頃には両国橋の東西に百十四人の芸妓が居つて江戸随一の殷盛地と称せられた。 成島柳北の「柳橋新誌」にも、江都歌妓の多くして佳なるもの斯地を以て冠とすと書いてゐる。 両国橋東詰に二洲楼あり、今は骨董屋の市場である江東美術倶楽部が中村楼であり、尾上河岸の佐々木病院が井生村楼であつた時代には、川向ふにも脂粉の気は可なり濃厚に漲つてゐたのである。

柳橋芸妓の何処かに、昔の「羽織」と称された時代のスッキリした気風の残つてゐるのは、此の歴史と伝統に負ふ所が少くないと思ふ。 且つ此里の芸妓は殆んど東東生れで、—少くも東京附近の者が大部分を占め、新橋・赤坂の如くに名古屋種や新潟美人が幅を利かせて居るのとは違ふ。 客筋も下町の大店の主人とか米屋町あたりのが多い、官吏や会社方面でも灰汁の抜けた連中のみが、此の里へ足を踏み入れる。 かうした因果関係が、こゝの芸妓をいつまでも江戸風にして置く所以であらう。 それが果していつ迄つゞくかは問題であるとしても。