今日の新橋

芸妓屋二百四十三軒、芸妓約六百五十名。 料理屋九軒。 待合百六十軒。

これを昭和元年度末の芸妓総数七百三十余名に比すれば、約八十余名の減少であるが、昨今は復大分増加して居るらしいから、先づ七百名内外といふのが此花街の常時芸妓概数と見ていゝであらう。 芸妓屋としては「森川家」最とも有名で、新橋花街と森川家は切つても切れぬ関係にある、現に芸妓組合の頭取で演舞場の社長を兼ねてゐるが、多年新橋芸妓の技芸、妓品の向上、及び芸妓屋側の勢力維持に努力し来たり、叉現に爲つゝある功労は沒すべからずである。

抱妓の多いのでは菊村、富田家、浜大和、花増家、徳森川、金三升、中菊等を挙ぐべきだが全体の四割強は自前の芸妓である。

花街区域は冒頭記載の通り西は外濠端から東は築地十丁目まで約十二丁、南北亦五六丁といふ広い面続を占めて居るが、芸妓屋は銀座の電亭線路を挟んで東西両裏通りに集中し、三十間堀川以東には一軒もない、即ち銀座街の西裏である「金春通」、その西なる「仲通」、それから大通を一つへだてた「板新道」に各五十軒内外、少し北に離れて銀座西六に六七十軒、銀座街の東裏なる「信楽新道」に卅五六軒。

これに反して料理屋・待合は此の方面には甚だ少なく。 両方併せても漸やく四十軒位のもので主なる出先きは三十間堀川を越えた向ふ側の木挽町八、九、十丁目及び築地一、二、三丁目に亙つて総数の四分の三は此の方面に集中してゐる。 それで芸妓券番は銀座西八丁目にあるが、「第二券番」と称する組合の出膜所を木挽町九丁目に置いて出先きの便を計つてゐる。 尚ほ烏森にある相楼家、本住吉といふ二軒の待合は新橋芸妓の出先きで、この二軒は烏森花街の中に在りながら、烏森芸妓は遠出でないと入らない。

且この里の制度で他とちよつと変つてゐるのは、他の花街では大抵芸妓屋・料理屋・待合が三業組合を組織してやつて居るが、新橋は芸妓屋組合と五業組合の二つに別れて相対立してゐる。 今一つは、抑もその「五業組合」なる制度からして面白い、所謂五業とは料理屋・鳥料理・鰻屋・待合・及び遊船宿を指すのだが、現在に於てはすでに箱の入る鳥料理及び鰻屋は一軒も無くなり、遊船宿は兵庫屋、中村屋の二軒だけ残つてゐるが、船などは一艘も持つて居らず事実は普通の待合茶屋と何等異るところはない。 然したとへ名儀だけにもせよ、今に遊船宿の名を継承して変へず、また事実は料理、待合の二業にすぎないものを、昔のまゝ五業組合と称して居るなどは、至極おもしろいではないか。 —但お隣りの新当町も五業組合制になつてるやうだ。