新橋の花街は元は烏森と一つの花街で、京橋と芝の区堺である「新橋」(橋の名)を真ン中に、煉瓦地芸妓・南地芸妓と芸妓街は二つに分れてゐたが出先きは全く共同で、恰も今日の下谷池の端と同じやうな態であつたのが、大正十一年分離して「新橋」及び「烏森」−或は新橋南地の花街となつたものである。
明治初年流行の「かいヽ節」に、「さても開化の御代ならば、カイヽづくしで申します、当世流行は演説会、国会書写会親睦会、内国博覧大会に、浅草奥山撃剣会、北海道には開拓使娼妓は苦界で鯰(官吏)は猫(芸妓)買ひ…………』と謡はれた通り、王政維新、明治政府の樹立とゝもに頓に眼立つて来た現象は、社会諸制度の改革もあつたが、まづ田舎武士あがりの官吏の専横、宴会の流行、及び之に件ふ芸妓の台頭であつて、幕末以来一時火の消えたやうだつた全市の花街は、一斉に活気を帯びて来た。 旧花街の死灰が俄かに燃えはじめると同時に一方には新らしい花街も続々と生れた。 或る時は政府みづから遊廓を設置したりもした。 この機運に乗じて、帝都の玄関口である新橋駅に近く、叉諸官署にも遠からぬ地の利を選んで進出したのが我が新橋花街であつて、忽ち政府大官連や政商連の遊興の根拠地となつた、明治大正花柳史には其の名を逸することのできない伊藤、桂、西園寺その他等々、皆その根拠を新橋村に置いた。 「待合政治」なるものは実に此の花街から始まつたのであり、且つ今日尚ほ其の跡を断たぬ待合政治の本場は、依然として此の里である。 新橋は明治の新政府と倶に超り、倶に発展して来た花街であると言つて、誤りでなからうとおもふ。 客種の良いといふことが何物よりもの強味で、どしヽ数も殖えれば、美人も集まつて来た。 芸にも力を入れるし、気品を保つことにも大いに努力して来て居る。 柳橋と併せて東京の代表花街とせられるが、もし二者その一を選ぶとすれば、柳橋でなく矢張り新橋を推すべきである。