品川区

品川

品川区品川町、旧市街地の西南端芝区高輪町に接続せる海添ひの町で、往時東海道方面から江戸に入る玄関口。 市街電車(上野−品川線又は浅単—品川線)は「北品川」まで伸びてゐて、其の終点停留場は丁度品川花街の裏手に当つてゐる。 省線電車によれば品川駅下車、徒歩五分間にして遊廓地に達するととができる。

品川は江戸を出て最初の宿場で、旅に立つ者送るもの皆こゝの茶屋で一杯飮んで別れるのを恒例としてゐた。 品川から先きの大井町や大森附近がすっかり東京気分であるのに、却って旧市街に接続せる品川が、いまだに宿場町の古い気分と形態とを残してゐるのなども、おもしろい対照ではないか?入口の左側に小料理屋がズラリと目白押しに四五軒、料理に使ふ蛤や、蝦、蟹、蝶螺などを店頭にならべて、『……らツしやいまし……』『……らツしやいまし』と客を呼び立てゝゐるところ、何としても昭和の光景でない。 京浜国道とは別に狭い昔のまゝの海道に面して商家と妓樓とが犇と軒をつらねてゐゐ有様も、今日は田舎の町へ行っても容易に見られる光景ではない。 新宿遊廓が裏町へ移転して以後、街道筋に遊廓を残してゐるのは、おそらく品川ばかりであらう。 単にその点だけから言っても品川は特色のある花街だと云へる。

品川は膳のむかふに安房上総(古川柳)

「海のあなたにうすがすむ、山は上総か房州か」と、古い鉄道唱歌にもある通り、料理屋にも妓樓にも、海に面して眺望の好い室を有った家が多かった。 性来海を見ることの好きであった私は、まだ独身の頃佃島の旅館から此の品川の漁夫町に移って約半年、次いで立会川附近の来福寺といふ寺に半年、丁度一年ばかりこの方面に棲んでゐたことがあって、社(銀座)の帰りによくこゝの海の見える料理屋へ夕飯を食べに寄ったものだった。 それ故その頃から居る古い芸妓ならば大抵は知つてゐるが、むかしの宿場気分と、東京の場末気分とがこんがらがつたやうな、一種奇妙な気分をもつた花街であつた。

伊藤博文と井上馨とが、こゝで女郎買ひをした話をその時私は想ひ出してゐた。 『江戸の入口に碧眼鴃舌の夷人の邸を置くとは、以ての外の国辱でござる』と高杉東行、久原玄瑞以下、長州の志士が、文久二年十二月十三日の夜、御殿山の英国公使館を焼討した。 その時井上聞多は門番斬捨役伊藤俊助が火付役といふ役割であつたさうだが、志士一同は昼頃から品川の「土蔵相模」で痛飲して日の暮れるのを待つて出かけたのであつたし、長州藩の志士で故伊藤公が生前つねに恩師と呼んでゐた来原良蔵が屠腹の前夜、置酒痛飲したのも例の土蔵相模であつた。

水の無い口留江戸の出口なり。

大井川、よりも品川首ッたけ。

いづれも昔の品川遊廓の気分とその繁昌ぶりを察する上に価値がある。

大井

「お若エの、お待ちなせこと芝居なら幡隨院の長兵衛が権八に声をかけるところ、むかしの刑場跡である鈴ヶ森を中心として出現した花街。 京浜国道に沿ふで交通至便旧市街の中心神田から円タクで行つでも安ければ五十銭、七十銭出すのはいゝお客とされてゐる。 京浜電車ならば「鈴ヶ森」又は「大森海岸」下車。

一時南郊名物『砂風呂』で鳴らしたところ、その砂風呂が発達して今回の花街をかたも造ったと言ってよく、当時芸妓は主として次章紀する所の「海岸」から仰いでゐたものだが、昭和二年四月三業許可地となって両立し、同年の十月から名実伴ふ今日の三業花街となったもの。 組合は異るけれど、事実に於て、「大森海岸」とは殆んど一つゞきの花街を成してゐる。

現在芸妓屋六十五軒、芸妓の総数二百四五十名(内小芸妓十三、四名)で、待合三十軒、料亭及び料理旅館兼業が三十九軒、合せて約七十軒である。

五反田

省線電車の五反田駅附近、電車の窓からすぐ目の前に鉱泉旅館何々と書いた屋根看板が、頗ぶる非美術的にゴタヽと見えてゐる一廓で、地域からいへば大崎町上大崎百十番地を中心として、上大崎、下大崎及び谷山方面に伸びてゐる。 市内電車の便は頗ぶる悪い。

短日月の間にもつとも急激な発展をした新花街として、東に「尾久」西に「五反田」がある。 而もこの両地が共に最初鉱泉を呼びものとして発足したのも対照がちょつとおもしろい。 鉱泉と云つても無論たいしたものではない、幾分かの薬物を含んだ水ぐらひは何処にもあるものだが、兎に角田圃の中に鉱泉の湧出を発見して鉱泉旅館が起り、その旅館を中心に一種の女があらはれて遂に今日の花街をつくるに至つた径路は、極く有ふれた行き方でもあるし、少しく東京に古く居る人ならば各自目撃して居る所であるから、敢て茲に説明する迄もない。 芸妓営業の指定地認可を受けたのが大正十年五月で、市内で行き詰つてゐた芸妓屋が続々此の新開地を指して集まつて来た。 一時は実に素ばらしい景気であつた、その後へ例の大震災で、そのおかげで又一ふくれ膨脹したのであるが、丁度品川と渋谷へ同距離の中間地帯で、地の利も好かつたのである。

「新開地のこと故、何等都の客を引くに足る名物はない、せめて酒でも良くしろ。 」

といふので、最初はどこの家でも申合せて「黒松白鷹」を使つたものだつた。 それも賢明なやり方であつたと云へる。 大正十五年四月持合指定地(約五千坪)の許可を受けて完全な三業組織となり、

現在芸妓屋 大十軒。 芸妓(大小併せて)百五十名。 料理店 二十三軒。 待合 四十軒。

を抱擁し、情調とか気分とかいふ点に於てこそ取立てゝいふ程のものは無くても、兎に角その規模に於て、品位に於て、渋谷と共に西部を代表する二大花街である。

芸妓屋の草分は「大国家」で、大森海岸の鯉家から分れて遠征して来た姐さん。 鷹大国、光大国、福大国、金大国、松大国、芳福大国など屋号にその系統を物語つてる芸妓屋が多い。 芸妓中の元老株は鷹大国の高助、瓢家の小さん、高の家のしげ香、鈴むらのいろはなど。 ダンス芸妓に宝家の小松。 福大国の福丸あり。 時勢に即した洋装姿もピタリと身に合つて、地元の花街よりも却つて新橋あたりへ遠出して稼いで居る日が多いと言はれる程の全盛ぶりである。